《战国鸟兽戏画~甲~》
家喻户晓的历史局面、平凡无奇的日常等等,将各种场面的战国武将比作动物描绘出来,在日本的历史中游乐的电视节目,即是《战国鸟兽戏画》。
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第1话 想给你看的
織田信長に「見せたいものがある」と呼び出された豊臣秀吉と徳川家康。嫌な予感を感じながら岐阜城までやってきた二人だったが…。史実 / 1571年、織田信長は、浅井、朝倉軍を匿ったことを理由に、比叡山を焼き討ち。1574年の元旦に朝倉義景、浅井久政、浅井長政の首を薄濃にして杯にし、これを酒の肴にしたとされている。また、新しいものに興味を持っていたと言われており、南蛮貿易を盛んに行っていた。その中の一つに鉄砲があり、1575年長篠の戦いで有効利用され、戦での鉄砲の重要性を示したとされ、その後の戦の仕方に影響を与えたと言われている。
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第2话 谁是第一
この日、七本槍のメンバーは豊臣秀吉に集められていた。突如、秀吉より告げられた「一番槍を決める」との発表に戸惑いを隠せない七本槍メンバーだったが…。史実 / 織田信長が本能寺にて倒れた後、その後の後継者争いの中で豊臣秀吉は、柴田勝家と対立を深めていく。二人の争いは、織田勢力を二分する戦いとなり、1583年賤ヶ岳の戦いが起こり、秀吉が勝家を破り、信長の後継者争いで優位な地位を築いた。その賤ヶ岳の戦いで功績を挙げた秀吉子飼いの武将達が、後世に七本槍と呼ばれており、その後の豊臣政権で大きな勢力を持つことになっていった。
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第3话 政宗的忧郁
一揆を扇動した疑いをかけられ、豊臣秀吉から説明を求められた伊達政宗と片倉小十郎は京へと向かっていた。小十郎の考えた秘策を用意して…。史実 / 政宗は秀吉に奥州仕置により改易された葛西・大崎氏の旧臣による葛西・大崎一揆を煽動した疑惑をかけられ、釈明にいくため白づくめの死装束を身にまとい、行列の先頭には金箔を塗った磔柱を掲げて、秀吉の待つ京・聚楽第へ向かったとされている。
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第4话 奇怪的二人
延暦寺攻略の途中経過を報告するため織田信長の元へやってきた豊臣秀吉と徳川家康。しかし、そこで意外なものを目撃してしまい…。史実 / 森蘭丸は、史実としては「森乱」と書かれることが多く、織田信長の小姓として身の回りの世話だけでなく、側近として活動して重要な使者等をつとめ、信長に重宝されたと言われている。また、信長自身の自慢できるものの1つとして蘭丸を挙げていたという話も残っている。
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第5话 六文钱
関ヶ原の戦いでの敗北以降、貧しい生活を強いられていた真田昌幸と真田幸村。なけなしの金を持ってふと団子屋に立ち寄った二人だったが…。史実 / 関ヶ原の戦いで豊臣方についた真田昌幸・幸村は敗戦後、兄・信幸と義父・本多忠勝の懇願もあり、死罪を免れ高野山での蟄居となったとされている。当初は高野山に入ったが、後に少しはなれた九度山に移り住んだ。そこでの生活は苦しく、仕送りを催促していた。
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第6话 我的兜裆布
ある夜、内緒でふんどしを洗いに井戸までやってきた徳川家康。その時、突然一陣の風が吹き…史実 / 徳川家康は、汚れが目立たず洗濯の回数が減り、生地が長持ちする理由で薄黄色のふんどしを好んだとされている。
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第7话 草鞋的秘密
姉川の戦いに向かうため戦の準備を進めていた豊臣秀吉と柴田勝家。そんな中、織田信長の草履を懐で温めていた理由について秀吉の口から衝撃の事実が明かされ…。史実 / 織田信長に仕えた豊臣秀吉は、草履取りを命じられる。草履取りになった秀吉は、寒い時期に、信長が草履を履いてもよいようにと草履を懐に入れ暖めてから信長に差し出す気遣いを見せ、以後、信長に認められるきっかけになったと言われている
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第8话 敲头带帽
不仲で知られる藤堂高虎と黒田長政の仲を取り持とうと考えた細川忠興。平和的に叩いてかぶってジャンケンポイで勝敗を決めようと思い立つも…。史実 / 黒田長政の兜のモチーフは「一の谷」と呼ばれており、源義経が断崖を下り、奇襲をかけた「一の谷の戦い」の地形をモチーフにしたとされている。また藤堂高虎の兜は唐の役人が冠る冠をモチーフにしたとされれている。黒田長政と細川忠興には確執があったと言われており、原因として、国替えの際の、黒田長政の年貢持ち逃げなどがある。
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第9话 风林火山
八幡原の戦いを前に軍旗に書く旗印を決めようと頭を悩ます武田信玄。かつて孫氏が用いたというフレーズを引用することに決めるが、あと一文字が何だったか思い出せず…。史実 / 『孫子』・軍争篇第七で、軍隊の進退について書いた文章を部分的に引用した「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称で風林火山と呼ばれているが、この旗がいつ作られたのかは確かな記録がなく、風林火山という通称も後の創作と言われている。
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第10话 宝物
織田信長に連れられ、松永久秀が籠城する信貴山城にやってきた、豊臣秀吉と徳川家康。どうやら信長は久秀が持つあるお宝に目をつけたらしいのだが…。史実 / 松永久秀所有していた茶釜は蜘蛛が這いつくばっているような形をしていたことから「古天明平蜘蛛」と呼ばれていた。久秀は織田信長に幾度となく平蜘蛛を所望されていたが断固として断っていたと言われている。信長を裏切った久秀は信長軍の攻撃により平蜘蛛を叩き割り切腹。平蜘蛛に火薬を詰め、自爆したとの逸話も残っている。
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第11话 洞
徳川家康率いる江戸幕府と豊臣家との間で大坂の陣と呼ばれる戦が始まろうとしていた。豊臣秀頼と母親の淀殿は城に籠城する前に大阪城の周りを散歩していたのだが…。史実 / 大坂城は北、西、東を淀川や大和川などが天然の堀の役目を果たしており、南側だけが唯一地続きになっていたと言われており、大坂の陣の際、真田幸村は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城「真田丸」を築いたとされている。この真田幸村と「真田丸」の存在が、徳川軍を大いに苦しめたと言われている。
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第12话 水攻
備中高松城の城主・清水宗治に招かれ、いろいろ満喫していた織田信長一行。そんな中、豊臣秀吉と黒田官兵衛は羽目を外しすぎてしまい…。史実 / 織田信長の命を受けた豊臣秀吉が毛利配下の清水宗治の守護する備中高松城に侵攻。黒田官兵衛の策により、水攻めを実行。その後、毛利方と秀吉との講和の話が進む中、本能寺の変が起こる。秀吉は信長の死が毛利に伝わる前に和睦を進めたとされ、その条件の一つとして宗治は城兵を守るために切腹したと言われている。
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第13话 过年
長きに渡る浅井朝倉軍との戦いを制し、新たな気持ちで年を越すことができた織田信長は家臣たちを集め新年会を開いていた。そんな中、サプライズで信長が企画した催し物が開かれる。史実 / 織田信長の歴史資料である「信長公記」に、天正二年(1574年)1月1日、織田信長が、前年討ち取った浅井久政・長政及び朝倉義景の髑髏に漆を塗ったものを馬廻衆との宴に披露したと記されている。